判決を紹介する理由
加害者を告訴・告発するにしても、刑法・特別刑法・刑事訴訟法等の法令や判例を正しく理解している必要があります。今回取り上げるのは、刑罰法規の明確性が問題となった、徳島市公安条例事件(最高裁判所大法廷昭和50年9月10日判決)です。
判決全文
主文
原判決及び第一審判決を破棄する。
被告人を罰金一万円に処する。
被告人において右罰金を完納することができないときは、金一〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。
第一審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理 由
検察官の上告趣意について
第一 本事件の経過
本件公訴事実の要旨は、「被告人は、Aの専従職員兼Bの幹事であるところ、昭和四三年一二月一〇日C主催の『B五二、D・E基地撤去、騒乱罪粉砕、安保推進内閣打倒』を表明する徳島市F公園から同市a、b町、c町、d、b町、e町を経てG駅に至る集団示威行進に青年、学生約三〇〇名と共に参加したが、右集団行進の先頭集団数十名が、同日午後六時三五分ころから同六時三九分ころまでの間、同市e町f丁目F公園南東入口から出発し、新町橋西側車道上を経て同市ag丁目h番地豊栄堂小間物店前付近に至る車道上において、だ行進を行い交通秩序の維持に反する行為をした際、自らもだ行進をしたり、先頭列外付近に位置して所携の笛を吹きあるいは両手を上げて前後に振り、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動し、かつ、右集団示威行進に対し所轄警察署長の与えた道路使用許可には『だ行進をするなど交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと』の条件が付されていたにもかかわらず、これに違反したものである。」というのであり、このうち被告人が「自らもだ行進をした」点が道路交通法(昭和三五年法律第一〇五号)七七条三項、一一九条一項一三号に該当し、被告人が「集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者がな通秩序の維持に反する行為をるようにせん動した」点が「集団行進及び集団示威運動に関する条例」(昭和二七年一月二四日徳島市条例第三号、以下「本条例」という。)三条三号、五条に該当するとして、起訴されたものである。
第一審判決は、道路交通法七七条三項、一一九条一項一三号該当の点については被告人を有罪としたが、本条例三条三号、五条該当の点については、被告人を無罪とした。右無罪の理由とするところは、道路交通法七七条は、表現の自由として憲法二一条に保障されている集団行進等の集団行動をも含めて規制の対象としていると解され、集団行動についても道路交通法七七条一項四号に該当するものとして都道府県公安委員会が定めた場合には、同条三項により所轄警察署長が道路使用許可条件を付しうるものとされているから、この道路使用許可条件と本条例三条三号の「交通秩序を維持すること」の関係が問題となるが、条例は「法令に違反しない限りにおいて」、すなわち国の法令と競合しない限度で制定しうるものであつて、もし条例が法令に違反するときは、その形式的効力がないのであるから、本条例三条三号の「交通秩序を維持すること」は道路交通法七七条三項の道路使用許可条件の対象とされるものを除く行為を対象とするものと解さなければならないところ、いかなる行為がこれに該当するかが明確でなく、結局、本条例三条三号の規定は、一般的、抽象的、多義的であつて、これに合理的な限定解釈を加えることは困難であり、右規定は、本条例五条によつて処罰されるべき犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を備えているといえず、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条の趣旨に反するというのである。
原判決は、本条例三条三号の規定が刑罰法令の内容となるに足る明白性を欠き、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条に違反するとした第一審判決の判断に過誤はないとして、検察官の控訴を棄却した。
検察官の上告趣意は、原判決の右判断につき憲法三一条の解釈適用の誤りを主張するものである。
第二 当裁判所の見解
一 本条例三条三号、五条と道路交通法七七条、一一九条一項一三号との関係について
道路交通法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的として制定された法律であるが、同法七七条一項は、「次の各号のいずれかに該当する者は、それぞれ当該各号に掲げる行為について」所轄警察署長の許可を受けなければならないとし、その四号において、「前各号に掲げるもののほか、道路において祭礼行事をし、又はロケーシヨンをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法により道路を使用する行為又は道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしょうとする者」と規定し、同条三項は、一項の規定による許可をする場合において、必要があると認めるときは、所轄警察署長は、当該許可に道路における危険を防止しその他交通の安全と円滑を図るため必要な条件を付することができるとし、同法一一九条一項一三号は、七七条三項により警察署長が付した条件に違反した者に対し、これを三月以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する旨の罰則を定めている。
そして、徳島県においては、徳島県公安委員会が、右規定により許可を受けなければならない行為として、徳島県道路交通施行細則(昭和三五年一二月一八日徳島県公安委員会規則第五号)一一条三号において、「道路において競技会、踊、仮装行列、パレード、集団行進等をすること」と定めており、本件集団示威行進についても、主催者から所轄徳島東警察署長に対し、道路交通法七七条一項四号、徳島県道路交通施行細則一一条三号により道路使用許可申請がされ、徳島東警察署長から、「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足又はおそ足行進、停滞、すわり込み、先行てい団との併進、先行てい団の追越し及びいわゆるフランスデモ等交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと」等四項目の条件を付して、道路使用許可がされている。
他方、本条例は、一条において、道路その他公共の場所で集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするときは、同条一号、二号に該当する場合を除くほか、徳島市公安委員会に届け出なければならないとし、三条において、
「集団行進又は集団示威運動を行おうとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。
一 官公署の事務の妨害とならないこと。
二 刃物棍棒その他人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと。
三 交通秩序を維持すること。
四 夜間の静穏を害しないこと。」と規定し、五条において、三条の規定等に違反して行われた集団行進又は集団示威運動(以下、「集団行進等」という。)の主
催者、指導者又はせん動者に対し、これを一年以下の懲役若しくは禁錮又は五万円以下の罰金に処する旨の罰則を定めている。
本件一、二審判決は、憲法九四条、地方自治法一四条一項により、地方公共団体の条例は国の法令に違反することができないから、本条例三条三号の「交通秩序を維持すること」とは道路交通法七七条三項の道路使用許可条件の対象とされる行為を除くものでなければならないという限定を付したうえ、本条例五条の罰則の犯罪構成要件の内容となる本条例三条三号の規定の明確性の有無につき判断しているのであるが、まず、このような限定を加える必要があるかどうかを検討する。
道路交通法は、前述のとおり、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ること等、道路交通秩序の維持を目的として制定されたものであり、同法七七条三項による所轄警察署長の許可条件の付与もかかる目的のためにされるものであることは、多言を要しない。
これに対し、本条例の対象は、道路その他公共の場所における集団行進及び場所のいかんを問わない集団示威運動であつて、学生、生徒その他の遠足、修学旅行、体育競技、及び通常の冠婚葬祭等の慣例による行事を除くものである。
このような集団行動は、通常、一般大衆又は当局に訴えようとする政治、経済、労働問題、世界観等に関する思想、主張等の表現を含むものであり、表現の自由として憲法上保障されるべき要素を有するのであるが、他面、それは、単なる言論、出版等によるものと異なり、多数人の身体的行動を伴うものであつて、多数人の集合体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とし、したがつて、それが秩序正しく平穏に行われない場合にこれを放置するときは、地域住民又は滞在者の利益を害するばかりでなく、地域の平穏をさえ害するに至るおそれがあるから、本条例は、このような不測の事態にあらかじめ備え、かつ、集団行動を行う者の利益とこれに対立する社会的諸利益との調和を図るため、一条において集団行進等につき事前の届出を必要とするとともに、三条において集団行進等を行う者が遵守すべき事項を定め、五条において遵守事項に違反した集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対し罰則を定め、もつて地方公共の安寧と秩序の維持を図つているのである。
このように、道路交通法は道路交通秩序の維持を目的とするのに対し、本条例は道路交通秩序の維持にとどまらず、地方公共の安寧と秩序の維持という、より広はん、かつ、総合的な目的を有するのであるから、両者はその規制の目的を全く同じくするものとはいえないのである。
もつとも、地方公共の安寧と秩序の維持という概念は広いものであり、道路交通法の目的である道路交通秩序の維持をも内包するものであるから、本条例三条三号の遵守事項が単純な交通秩序違反行為をも対象としているものとすれば、それは道路交通法七七条三項による警察署長の道路使用許可条件と部分的には共通する点がありうる。しかし、そのことから直ちに、本条例三条三号の規定が国の法令である道路交通法に違反するという結論を導くことはできない。.
すなわち、地方自治法一四条一項は、普通地方公共団体は法令に違反しない限りにおいて同法二条二項の事務に関し条例を制定することができる、と規定しているから、普通地方公共団体の制定する条例が国の法令に違反する場合には効力を有しないことは明らかであるが、条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するのみでなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾抵触があるかどうかによつてこれを決しなければならない。例えば、ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がない場合でも、当該法令全体からみて、右規定の欠如が特に当該事項についていかなる規制をも施すことなく放置すべきものとする趣旨であると解されるときは、これについて規律を設ける条例の規定は国の法令に違反することとなりうるし、逆に、特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目
的に基づく規律を意図するものであり、その適用によつて前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないときや、両者が同一の目的に出たものであつても、国の法令が必ずしもその規定によつて全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、それぞれの普通地方公共団体において、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、国の法令と条例との間にはなんらの矛盾抵触はなく、条例が国の法令に違反する問題は生じえないのである。.
これを道路交通法七七条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則と本条例についてみると、徳島市内の道路における集団行進等について、道路交通秩序維持のための行為規制を施している部分に関する限りは、両者の規律が併存競合していることは、これを否定することができない。しかしながら、道路交通法七七条一項四号は、同号に定める通行の形態又は方法による道路の特別使用行為等を警察署長の許可によつて個別的に解除されるべき一般的禁止事項とするかどうかにつき、各公安委員会が当該普通地方公共団体における道路又は交通の状況に応じてその裁量により決定するところにゆだね、これを全国的に一律に定めることを避けているのであつて、このような態度から推すときは、右規定は、その対象となる道路の特別使用行為等につき、各普通地方公共団体が、条例により地方公共の安寧と秩序の維持のための規制を施すにあたり、その一環として、これらの行為に対し、道路交通法による規制とは別個に、交通秩序の維持の見地から一定の規制を施すこと自体を排斥する趣旨まで含むものとは考えられず、各公安委員会は、このような規制を施した条例が存在する場合には、これを勘案して、右の行為に対し道路交通法の前記規定に基づく規制を施すかどうか、また、いかなる内容の規制を施すかを決定することができるものと解するのが、相当である。そうすると、道路における集団行進等に対する道路交通秩序維持のための具体的規制が、道路交通法七七条及びこれに基づく公安委員会規則と条例の双方において重複して施されている場合においても、両者の内容に矛盾牴触するところがなく、条例における重複規制がそれ自体としての特別の意義と効果を有し、かつ、その合理性が肯定される場合には、道路交通法による規制は、このような条例による規制を否定、排除する趣旨ではなく、条例の規制の及ばない範囲においてのみ適用される趣旨のものと解するのが相当であり、したがつて、右条例をもつて道路交通法に違反するものとすることはできない。
ところで、本条例は、さきにも述べたように、道路における場合を含む集団行進等に対し、このような社会的行動のもつ特殊な性格にかんがみ、道路交通秩序の維持を含む地方公共の安寧と秩序の維持のための特別の、かつ、総体的な規制措置を定めたものであつて、道路交通法七七条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則による規制とその目的及び対象において一部共通するものがあるにせよ、これとは別個に、それ自体として独自の目的と意義を有し、それなりにその合理性を肯定することができるものである。そしてその内容をみても、本条例は集団行進等に対し許可制をとらず届出制をとつているが、それはもとより道路交通法上の許可の必要
を排除する趣旨ではなく、また、本条例三条に遵守事項として規定しているところも、のちに述べるように、道路交通法に基づいて禁止される行為を特に禁止から解除する等同法の規定の趣旨を妨げるようなものを含んでおらず、これと矛盾抵触する点はみあたらない。もつとも、本条例五条は、三条の規定に違反する集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対して一年以下の懲役若しくは禁錮又は五万円以下の罰金を科するものとしているのであつて、これを道路交通法一一九条一項一三号において同法七七条三項により警察署長が付した許可条件に違反した者に対して三月以下の懲役又は三万円以下の罰金を科するものとしているのと対比するときは、同じ道路交通秩序維持のための禁止違反に対する法定刑に相違があり、道路交通法所定の刑種以外の刑又はより重い懲役や罰金の刑をもつて処罰されることとなつているから、この点において本条例は同法に違反するものではないかという疑問が出されるかもしれない。しかしながら、道路交通法の右罰則は、同法七七条所定の規制の実効性を担保するために、一般的に同条の定める道路の特別使用行為等についてどの程度に違反が生ずる可能性があるか、また、その違反が道路交通の安全をどの程度に侵害する危険があるか等を考慮して定められたものであるのに対し、本条例の右罰則は、集団行進等という特殊な性格の行動が帯有するさまざまな地方公共の安寧と秩序の侵害の可能性及び予想される侵害の性質、程度等を総体的に考慮し、殊に道路における交通の安全との関係では、集団行進等が、単に交通の安全を侵害するばかりでなく、場合によつては、地域の平穏を乱すおそれすらあることをも考慮して、その内容を定めたものと考えられる。そうすると、右罰則が法定刑として道路交通法には定めのない禁錮刑をも規定し、また懲役や罰金の刑の上限を同法より重く定めていても、それ自体としては合理性を有するものということができるのである。そして、前述のとおり条例によつて集団行進等について別個の規制を行う
ことを容認しているものと解される道路交通法が、右条例においてその規制を実効あらしめるための合理的な特別の罰則を定めることを否定する趣旨を含んでいるとは考えられないところであるから、本条例五条の規定が法定刑の点で同法に違反して無効であるとすることはできない。
右の次第であつて、本条例三条三号、五条の規定は、道路交通法七七条一項四号、三項、一一九条一項一三号、徳島県道路交通施行細則一一条三号に違反するものということはできないから、本条例三条三号に定める遵守事項の内容についても、道路交通法との関係からこれに限定を加える必要はないものというべく、したがつて、この点に関する原判決の見解は、これを是認することができない。
二 本条例三条三号、五条の犯罪構成要件としての明確性について
次に、本条例三条三号の「交通秩序を維持すること」という規定が犯罪構成要件の内容をなすものとして明確であるかどうかを検討する。
右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。全国のいわゆる公安条例の多くにおいては、集団行進等に対して許可制をとりその許可にあたつて交通秩序維持に関する事項についての条件の中で遵守すべき義務内容を具体的に特定する方法がとられており、また、本条例のように条例自体の中で遵守義務を定めている場合でも、交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがあるといわなければならない。しかしながら、およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当
該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。
そもそも、道路における集団行進等は、多数人が集団となつて継続的に道路の一部を占拠し歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通秩序を必然的に何程か侵害する可能性を有することを免れないものである。本条例は、集団行進等が表現の一態様として憲法上保障されるべき要素を有することにかんがみ、届出制を採用し、集団行進等の形態が交通秩序に不可避的にもたらす障害が生じても、なおこれを忍ぶべきものとして許容しているのであるから、本条例三条三号の規定が禁止する交通秩序の侵害は、当該集団行進等に不可避的に随伴するものを指すものでないことは、極めて明らかである。ところが、思想表現行為としての集団行進等は、前述のように、これに参加する多数の者が、行進その他の一体的行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆等に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値があるものであるから、これに対して、それが秩序正しく平穏に行われて不必要に地方公共の安寧と秩序を脅かすような行動にわたらないことを要求しても、それは、右のような思想表現行為としての集団行進等の本質的な意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならないのである。そうすると本条例三条が、集団行進等を行おうとする者が、集団行進等の秩序を保ち、公共の安寧を保持するために守らなければならない事項の一つとして、その三号に「交通秩序を維持すること」を掲げているのは、道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解されるのである。そして、通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしようとする行為が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたつては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであり、例えば各地における道路上の集団行進等に際して往々みられるだ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しく平穏な集団行進等に随伴する交通秩序阻害の程度を超えて、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為にあたるものと容易に想到することができるというべきである。
さらに、前述のように、このような殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為は、思想表現行為としての集団行進等に不可欠な要素ではなく、したがつて、これを禁止しても国民の憲法上の権利の正当な行使を制限することにはならず、また、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為であるかどうかは、通常さほどの困難なしに判断しうることであるから、本条例三条三号の規定により、国民の憲法上の権利の正当な行使が阻害されるおそれがあるとか、国又は地方公共団体の機関による恣意的な運用を許すおそれがあるとは、ほとんど考えられないのである(なお、記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例三条三号の規定が、国民の
憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない。)。
このように見てくると、本条例三条三号の規定は、確かにその文言が抽象的であるとのそしりを免れないとはいえ、集団行進等における道路交通の秩序遵守についての基準を読みとることが可能であり、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠き憲法三一条に違反するものとはいえないから、これと異なる見解に立つ原判決及びその維持する第一審判決は、憲法三一条の解釈適用を誤つたものというべく、論旨は理由がある。
よつて、刑訴法四一〇条一項本文により第一審判決及び原判決を破棄し、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法四一三条但書により被告事件についてさらに判決する。
第一審判決の認定によると、被告人は、昭和四三年一二月一〇日B主催の「B五二、D・E基地撤去、騒乱罪粉砕、安保推進内閣打倒」、を表明する徳島市i町f丁目F公園から同市a、b町、c町、d、b町丸新デパート前路上に至る集団示威行進に、青年労働者、学生ら約三〇〇名とともに参加したが、右集団示威行進に対しては、所轄徳島東警察署長がその道路使用を許可するにあたり、「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足又はおそ足行進、停滞、すわり込み、先行てい団との併進、先行てい団の追越し及びいわゆるフランスデモ等交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと」との条件を付していたのに、右集団示威行進の先頭集団約八〇名が同日午後六時三六分ころから同六時三八分すぎころまでの間、県道宮倉徳島線上の同市e町f丁目F公園南東出入口付近の車道から同市新町橋西側車道南詰付近までの約七〇メートルの区間において最大幅約八メートルの右車道幅員一杯の、ま
た、同日午後六時三九分ころ、同県道上同市ag丁目八百秀食料品店前横断歩道北側端から同豊栄堂小間物店前付近までの約三五メートルの区間において、右車道幅員の約三分の二程度の部分を占める最大幅約五メートルの、それぞれだ行進をし交通秩序の維持に反する行為をした際、みずから右先頭集団直近の隊列外に位置して断続的に右先頭集団とともにだ行進をしたり、笛を吹いたり、両腕を前後に振つて合図する等し、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動し、かつ、右徳島東警察署長の付した道路使用許可条件に違反したもの(第一審判決の証拠の標目掲記の各証拠及び証人H、同I、同J、同Kの各第一審公判廷における供述による。)であり、右事実に法令を適用すると、被告人の右所為のうち、先頭集団直近の隊列外に位置して、だ行進をしたり、笛を吹いたり、両腕を前後に振つて合図する等して、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動した点は、本条例三条三号、五条(刑法六条、一〇条により罰金額の寡額は、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法二条一項所定の額による。)に、被告人がみずからだ行進をし徳島東警察署長の付した道路使用許可条件に違反した点は、道路交通法七七条一項四号、三項、一一九条一項一三号、徳島県道路交通施行細則一一条三号(罰金額の寡額につき前に同じ。)に、それぞれ該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として、重い本条例三条三号、五条の罪の刑で処断することとし、所定刑中罰金刑を選択し、その金額の範囲内で被告人を罰金一万円に処し、被告人において右罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金一〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、第一審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官小川信雄、同坂本吉勝の補足意見、裁判官岸盛一、同団藤重光の各補足意見、裁判官高辻正己の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官小川信雄、同坂本吉勝の補足意見は、次のとおりである。
われわれは多数意見に同調するものであるが、左の点について念のため補足的に意見を述べておきたいと思う。
集団行進等は、多数の人が、社会、政治、経済等の問題につき、公然とその主張、要求、観念等を力強く表示し、一般公衆に訴えてその賛成をえようとする集団的行動であるから、その性質上常に粛然とした行進であるにとどまらず、ある程度これを超える行進形態にわたることは、当然これを容認しなければならない。
したがつて、多数意見が徳島市公安条例三条三号にいう「交通秩序を維持すること」とは「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているもの……」と解するといつている意味は、正常な集団行進等に通常伴うであろう程度を超えた殊更な交通秩序阻害行為、すなわち集団行進等がその本来の性質上粛然とした行進の程度を何程か超える行進形態にわたりうるものであることを容認しながら、さらにその程度を超えた殊更な交通秩序阻害行為を避止すべきことを命じているという意味であると理解して、その意見に同調するものである。
事は、憲法の保障する国民の表現の自由にかかわる重要な問題であるので、この点を誤解した行過ぎの取締りのないことを願うものである。右の点を付加するほかは、われわれは裁判官団藤重光の補足意見に同調する。
裁判官岸盛一の補足意見は、次のとおりである。
わたくしは、多数意見に同調する者として、集団行動と表現の自由の制約の点について、いささか意見を補足しておきたい。
(一) 表現活動に対して、法令による規制がなされる場合に、それが憲法二一条に違反するか否かを判断するにあたつては、その目的が、表現そのものを抑制することにあるのか、それとも当該表現に伴う行動を抑制することにあるのかを一応区別して考察する必要があると考える。もとより、すべての表現活動は、なんらかの意味において行動を伴うものともいいうるのであるから、この区別は、表現活動を表現そのものと行動を伴う表現とに截然と二分して憲法上の保障に差等を設けようとするものではない。それは、規制の目的を重視し、表現そのものがもたらす弊害の防止に規制の重点があるのか、もしくは表現に伴う行動がもたらす弊害の防止が重点であるのかを識別したうえで、規制の合憲性を厳密に審査する必要があるとの見地から、右の区別をしょうとするものである。そして、そのことは、判断を正確にし、かつ、理解を容易にするために極めて有意義なことであると思うのである。
(二) 規制の目的が表現そのものを抑制することにある場合には、それはまさに、国又は地方公共団体にとつて好ましくない表現と然らざるものとの選別を許容することとなり、いわば検閲を認めるにひとしく、多くの場合、基本的人権としての表現の自由を抑圧するものであつて、違憲の判断をうけることはいうまでもない。当裁判所の判例が、例えば、国民の重要な法的義務の不履行を煽動すること(昭和二四年五月一八日大法廷判決・刑集三巻六号八三九頁、同三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁など)、猥褻文書を頒布すること(昭和三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁、同四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)、故なく他人の名誉を毀損すること(昭和三三年四月一〇日第一小法廷判決・刑集一二巻五号八三〇頁、なお同三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁)を犯罪として処罰する規定につき、利益較量の手法によることなく、それらの表現活動は、表現の自由に内在する制約を逸脱し、それ自体憲法上の保障をうけるに値しないことを根拠として、憲法二一条に違反するものではないとしたのは、これらの規制が右のような性質を有し、これらを合憲とすることには、本質的、根源的な理由を必要とするとの考えがあつたものと解される。ちなみに、右に摘示した従来の判例の中には、「公共の福祉に反する」という語句が用いられているものがあるとはいえ、その真意は、決して安易に公共の福祉論を展開しているのではなく、表現の自由にもそれに内在する制約のあることを説いているものであることは、判文全体を通じて理解することができるのである。
アメリカの連邦最高裁判所の判例が、違憲審査にあたり、いわゆる「明白かつ現在の危険」の原則を適用しているのも、規制の目的が表現そのものの抑制を志向している場合であつて、そのような規制については厳しい基準で合憲性を判断しようとする努力にほかならない。この原則は、当初は、国が憲法上阻止することが許されるような実質的害悪をもたらす行為の教唆、煽動を処罰することが違憲であるか否かの審査について用いられたものであつて、その抑制の根拠は、このような実質的な害悪が発生するさしせまつた危険を生じさせるような表現は、そのような害悪を発生させる行動にひとしく、自由な表現の交換による自然的な抑制を待ついとまがないということにあつた。この原則は、特に一九三〇年代以降広く適用され、表現活動に対する規制を違憲とする場合の決り文句のように判例に登場したが、次第にそれが妥当する範囲につき思索が重ねられ、一九五〇年には、この原則はあらゆる型態の表現活動にあてはまるものではなく、規制の目的が行動のもたらす重大な弊害の防止ということにある場合には適用されないことが明示され、翌一九五一年には、この原則が従来は保護される利益が非実質的で規制を合憲とするに足りない場合について広く適用されてきたことが指摘されたうえ、たとえ表現そのものがもたらす弊害の防止を目的とする規制であつても、保護される利益が極めて重大である場合には、規制の巾が拡大されることもありうるとされ、この原則の適用については利益較量による吟味が必要であることが明らかにされたのである。さらに、一九六五年には、集団行進やピケツテイング等の表現活動は行動と表現との混合であり、行動の面がもたらす実質的な弊害を防止するために裁判所近くでの集団示威運動を処罰することは合憲であるとされ、一九六八年には、公衆の面前で徴兵カードを焼却したいわゆる象徴的行動の事件について、言論と非言論とが同一の行動に結
合している場合に、非言論の面を規制することにつき十分な国の利益が認められるならば、これに付随した表現の自由が制約されても違憲ではないとされた。そしてさらに、公務員の政治行為の禁止を合憲とした一九七三年の判例においても、純粋な言論と行動を伴う言論との区別が重視されている。
もとより、わたくしは、アメリカの判例に教条的に追随しようとするものではない。右に略説した判例のなかにも傾聴すべき反対意見が述べられているものもあるし、また、事案の内容が、わが国で問題とされている性質のものと必ずしも同様とはいえないものもあるのである。それにもかかわらず、あえてこれを引合いに出したのは、前述のような判例にみられるこの原則の適用についての変遷は、単なる論理の演繹によるものではなく、経験に基づく帰納の結果であること、その裁判過程において合理的な価値の選択が重視されていること、そしてさらに、この原則の適用範囲が拡大された時代があつたとはいえ、今日では自覚的に表現そのものの規制が合憲であるか否かの判断基準として用いられていることに注目したいと思うからである。
(三) ところが、規制の目的が表現を伴う行動を抑制することにあるときは右と事情を異にする。この場合の規制は、国又は地方公共団体による検閲にひとしいような性質のものではない。そればかりでなく、表現を伴うあらゆる行動が、表現という要素をもつということだけの理由で憲法上絶対的な地位を占めるものとするときは、利益較量による相対立する利益の調和(それは、単なる平均的な調和ではなく、いわば配分的なそれというべきであろうか)という憲法解釈の要諦を忘れたものとの譏を免れないであろう。当裁判所の従来からの判例が、このような類型の規制について、適正な利益較量の手法により、大阪市屋外広告物条例(昭和四三年一二月一八日大法廷判決・刑集二二巻一三号一五四九頁)、他人の家屋その他の工作物にはり紙をすることを禁止する軽犯罪法一条三三号(昭和四五年六月一七日大法廷判決・刑集二四巻六号二八〇頁)公務員の政治活動の禁止(昭和四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁、六九四頁、七四三頁)などを合憲と判断したことには、このような考慮がめぐらされたものと解されるのである。
また、その行動を伴うことが、当該表現活動にとつて唯一又は極めて重要な意義をもつ場合には、行動それ自体が思想、意見の伝達と評価され、表現そのものと同様に憲法上の保障に値することもありうるが、そのようなときでも、規制の真の目的が行動による思想、意見の伝達を抑制することにあるのではなく、行動自体のもたらす実質的な弊害を防止することにある限りは、これを直ちに違憲であるということはできない。
ところで、集団行動の規制について、しばしば、一定の時間、場所、方法の規制あるいは一定の態様の行動(一定の属性をもつた行動)の規制であれば合憲であるとされるのは、その規制が概して当該行動のもたらす弊害の防止を目的とするものであると認められるからであつて、その真の根拠は前述したところに存するのである。換言すれば、ある一定の態様の集団行動についていうならば、一定の態様に限定された規制であるが故に直ちにそれが合憲とされるのではなくて、実質的な弊害をもたらすような当該行動の規制であり、しかも、それに伴う表現そのものに対する制約の程度も適正な利益較量として許容されるものであるからにほかならない。一定の態様による集団行動を禁止する規制であつて、他の態様による表現活動の余地が残されている場合であつても、規制の目的が表現そのものを抑制することにあるならば、その規制は矢張り違憲であるとされなければならない。
(四) 本件におけるような集団行動の規制を目的とするわが国の公安条例について、上述した見解をあてはめてみるに、もし表現そのものが国又は地方公共団体にとつて好ましくないものとしてこれを規制しようとするのであれば、違憲であるといわざるをえない。しかしながら、本件の徳島市条例がそのような規制を目的とするものではなく、行動のもたらす弊害の防止を目的とするものであることは明白である。そしてまた、蛇行進、うづ巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠して行進するいわゆるフランスデモ等の殊更な道路交通秩序の阻害をもたらす虞のある表現活動が表現の自由の名に値するものであるかは別論としても、上述のような見地からすれば、その規制は合憲であるとすることには異論はないと考えるものである。
(五) 以上の次第で、わたくしは、表現そのものと行動に伴う表現とを一応区別して考える当裁判所の従来の判例を維持したいと考えるとともに、そのような考えに立つて本件を処理する多数意見を支持したいと思うのである。
裁判官団藤重光の補足意見は、次のとおりである。
わたくしは多数意見に同調するものであるが、左の諸点について補足的に意見を述べておきたいと思う。
(一) 第一は、表現の自由の制約の問題である。これについては、表現そのものと表現の態様とを区別して考えなければならない。単に表現の態様にすぎないようなもの、換言すれば、問題となつている当の態様によらなくても、他の態様によつて表現の目的を達しうるようなばあいには、法益の権衡を考えた上で、単なる道路交通秩序のような、それほど重大でない法益を守るためにも、当の態様による表現を制約することができるものと解するべきであろう。多数意見が「道路交通秩序の維持をも内包」する広い概念としての「地方公共の安寧と秩序」ということを持ち出しているのは、表現の態様に関するかぎりにおいて、理解されうる。本件は、
被告人らのとつたような態様の行動によらなくても表現の目的を達しえたであろう事案であつたとみとめられるのであつて、多数意見の判示するところは正当であるとおもう。これに反し、表現そのものについては別論であつて、万が一にも本条例の濫用によつて単なる「交通秩序の維持」のために、表現そのものを抑圧するような処分が行われたならば、その処分はあきらかに違憲だといわなければならない。本条例が、そのような表現の自由の抑圧を容認するものでないことは、いうまでもない。
ちなみに、ここにわたくしが表現そのものと表現の態様とを区別するのは、表現の中に「純粋な言論」と「行動」とを区別する見解とは同一ではないことを、念のために、あきらかにしておく必要がある。表現はしばしば行動を伴うのであり、もしその行動によらなければ当の表現の目的を達成することが客観的・合理的にみて不可能なようなばあいには、その行動は表現そのものと考えられなければならない。日本国憲法が単に「言論」だけでなく、「言論、出版その他一切の表現」についてその自由を保障するものとしているのは、このような含蓄をも有するものと解するべきであろう。
(二) 第二は、犯罪構成要件の明確性に関する問題である。本条例五条は、三条とあいまつて、本件で問題となつている犯罪構成要件を規定しているが、三条三号は単純に「交通秩序の維持」としているだけであつて、同条本文の「公共の安寧を保持するため」とあわせてみるにせよ、「立法措置として著しく妥当を欠くものがある」ことは多数意見もみとめるとおりである。罪刑法定主義が犯罪構成要件の明確性を要請するのは、一方、裁判規範としての面において、刑罰権の恣意的な発動を避止することを趣旨とするとともに、他方、行為規範としての面において、可罰的行為と不可罰的行為との限界を明示することによつて国民に行動の自由を保障することを目的とする。後者の見地における行動の自由の保障は、表現の自由に関しては、とくに重要であつて、もし、可罰的行為と不可罰的行為との限界が不明確であるために、国民が本来表現の自由に属する行動さえをも遠慮するような事態がおこれば、それは国民一般の表現の自由に対する重大な侵害だといわなければならない。これは不明確な構成要件が国民一般の表現の自由に対して有するところの萎縮的ないし抑止的作用の問題である。もちろん、本件についてかような問題に立ち入ることが、司法権行使のありかたとして許されるかどうかについては、疑問がないわけではない。けだし、一般国民(徳島市の住民および滞在者一般)が本条例の規定によつて表現の自由の関係で萎縮的ないし抑止的影響を受けていたかどうか、また、現に受けているかどうかは、本件の審理の対象外とされるべきではないかとも考えられるからである。しかし、このような考え方は、裁判所が国民一般の表現の自由を保障する機能を大きく制限する結果をもたらす。わたくしは、これは、とうてい憲法の趣旨とするところではないと考えるのである。
かようにして、わたくしは、本条例三条、五条の構成要件の明確性の問題を検討するにあたつては、それが表現の自由との関連において国民一般に対して有するかも知れないところの萎縮的・抑止的作用をもとくに考慮に入れたつもりである。
そうして、わたくしは、多数意見もまた、同じ見地に立つものと理解している。第一に、多数意見がとくに、「記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例三条三号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない」ことを付言しているのは、実際にこうした萎縮的・抑止的作用が認定されえなかつたことをあきらかにするものであるとおもう(現に、記録上、弁護側から、かような点についてのなんらの立証活動もされていない)。第二に、規定じたいをみても、その適用の有無について、「通常の判断能力を有する一般人が具体的場合に」「通常その判断にさほどの困難を感じることはないはず」であることは、これまた、多数意見の説示するとおりである。およそ公安条例の規定する罪には一定の型があつて、本条例の罪にはとくに明示的な例示はないが、その内容がどのようなものであるかは、一般国民にとつてほぼ周知のことといえよう。純粋に文理的には疑問があるとはいえ、こうしたことを考慮に入れれば、多数意見の説示するところは、結局において、正当であるといわなければならない。ただ、本条例のような構成要件の規定のしかたは、かろうじて合憲とはいえるものの、立法措置としてはなはだ妥当を欠くものであることを繰り返して指摘しておかざるをえない。
(三) なお、第三に、多数意見は、本条例三条三号の趣旨について、同号に「交通秩序を維持すること」が掲げられているのは、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」としているが、ここに「集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合」といつているのは、いうまでもなく、正常な集団行進等のことを念頭に置いているものにほかならないであろう。この意味において、わたくしは小川、坂本両裁判官の補足意見にも同調するものである。
裁判官高辻正己の意見は、次のとおりである。
私は、原判決破棄の多数意見の結論には同調するが、本条例三条三号、五条の犯罪構成要件としての明確性の点については、多数意見と見解を一にすることができない。この点を明らかにしながら、私の意見を述べる。
一 いうまでもなく、刑罰法規の定める犯罪構成要件が明確であるかどうかの判断は、主として、裁判規範としての機能の面ではなく、その行為規範としての機能の面に着目し、裁判時を基準とするのではなく、行為者の行為の当時を基準として、されなければならない。その判断が、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」ことは、多数意見のいうとおりである。そして、そのような基準が読みとれるかどうかについて最も重視されるべきものが、当該規定の文言自体であることは、多言を要しない。
二 ところが、本件で問題とされる本条例三条三号の規定は、多数意見も自らいうように、「その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない」ものである。もとより、法規の適用には解釈がつきものであつて、その解釈については、規定の文言だけではなく、その規定と法規全体との関係、当該法規の立法の目的、規定の対象の性質と実態等が、考慮されてよい。
多数意見は、そのような諸点について考慮を重ねた上、本条例三条三号の規定は、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているもの」と解釈するのである。それは、一個の解釈としては間然するところがないが、そのような解釈をもつて、直ちに、通常の判断能力を有する一般人である行為者が、行為の当時において、理解するところであるとすることができようか。「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」を読みとるについて行為者に期待されるところは、通常の判断能力を有する者が規定の文言から素ぼくに感得するところの常識的な理解であつて、多数意見にあるような考慮を重ねて得られる解釈ではあるまい。
三 たとえ、通常の判断能力を有する一般人である行為者に対し、多数意見にあるような考慮を重ねた解釈を期待することができるとしても、その解釈の成果が、果たして、「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」を示すにつき欠けるところがないといえるであろうか。本条例三条三号の規定が避止すべきことを命じているのは集団行進等における「殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為」であるといつたところで、そこから具体的な行為としての限定を見出すことはできず、これをもつて「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」であるとすることができないことに、変わりはない。確かに、多数意見の掲示する「だ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ」が、その種の「殊更な……行為」の典型的なものであるとは解されよう。そして、そのような典型的なものは、それが典型的なものであればこそ、本条例三条三号の避止すべきことを命じている行為に当たると「容易に想到することができる」のであり、そうした理解は、通常の判断能力を有する者が、その常識において、規定の文言から素ぼくに感得するところのものであるということができるのである。しかし、そのような典型的な行為ではないが集団行進等において粛然とした形態にとどまらない形態をもたらすような行為については、どのような程度のものまでがその種の「殊更な……行為」に当たるとされるのか、「通常その判断にさほどの困難を感じることはない」といいきるには、疑問が残る。禁止行為に例示を設け、それによつて、禁止される行為が、例示の行為のほかには、それと同等程度の行為だけに限られるとする基準が示されている場合とは、場合が違うのである。
四 このようなわけで、私は、本条例三条三号の規定が集団行進等における道路交通の秩序遵守についての基準を読みとることを可能とするものであり、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠くものではないとする一般的見解には、多分に疑問があると考える。それにもかかわらず、私が原判決破棄の結論に同調しようとするのは、次の理由による。
さきにも述べたように、本件におけるだ行進が、交通秩序侵害行為の典型的のものとして、本条例三条三号の文言上、通常の判断能力を有する者の常識において、その避止すべきことを命じている行為に当たると理解しえられるものであることは、疑問の余地がない。それ故、本件事実に本条例三条三号、五条を適用しても、これによつて被告人が、格別、憲法三一条によつて保障される権利を侵害されることにはならないのである。元来、裁判所による法令の合憲違憲の判断は、司法権の行使に附随してされるものであつて、裁判における具体的事実に対する当該法令の適用に関して必要とされる範囲においてすれば足りるとともに、また、その限度にとどめるのが相当であると考えられ、本件において、殊更、その具体的事実に対する適用関係を超えて、他の事案についての適用関係一般にわたり、前記規定の罰則としての明確性の有無を論じて、その判断に及ぶべき理由はない。もつとも、刑罰法規の対象とされる行為が思想の表現又はこれと不可分な表現手段の利用自体に係るものであつて、規制の存在すること自体が、本来自由であるべきそれらを思いとどまらせ、又はその自由の取返しのつかない喪失をもたらすようなものである場合には、憲法がその保障に寄せる関心の重大さにかんがみ、別異の配慮を加えるべき憲法上の合理性とそれに由来する要請があるというべきである。しかし、本件において規制の対象とされる行為は、表現手段としての集団行進等をすることそれ自体ではなく、集団行進等がされる場合のその態様に関するものであつて、本件の場合は、右に述べたような特段の配慮を加えるべき場合には当たらないのである。
五 要するに、私は、本条例三条三号の規定は犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠くものとはいえないとする多数意見には賛成することができないが、本条例三条三号、五条の定める犯罪構成要件に当たることの明らかな本件事実については、上述の理由によつて、それらの規定の適用が排除されるべきではないと考えるのであつて、この点において、結局、原判決は破棄を免れないのである。
検察官大石宏、同蒲原大輔、同海治立憲、同石原一彦公判出席
昭和五〇年九月一〇日
最高裁判所大法廷
裁判長裁判官 村上 朝一
裁判官 関根 小郷
裁判官 藤林 益三
裁判官 岡原 昌男
裁判官 下田 武三
裁判官 岸 盛一
裁判官 岸上 康夫
裁判官 江里口 清雄
裁判官 大塚 喜一郎
裁判官 高辻 正己
裁判官 吉田 豊
裁判官 団藤 重光
裁判官 小川信雄は退官のため、裁判官坂本吉勝は海外出張のため、いずれも署名押印することができない。
裁判長裁判官
本判決のポイント
一般人の理解において、可罰的かどうかで決めるべきという点です。加害者の主張が、社会通念上おかしい場合には、罪に問えるということです。
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